最近もやもやしてる話

ちょっと変わった人にインタビューしてるテレビ番組って結構面白かったりするんだけど、少しだけ思うことがある。一応前置きをしておくけど悪口を書きたいわけじゃない。

普通と何かがずれてる人を笑うっていうのは割と日常的にあることだし、それ自体が悪だとは考えてない。
ただ、番組に出てくるちょっと変わった人の中には何かしら障害を持ってそうな人もがいるんだよな。これは専門知識のない私には断定はできないことなんだけど。
世間と少しずれてることが障害とは関係なく、その人の個性として受け入れられるならそれは良いことだと思う。

でも、自分が面白がって笑ってる相手が本当に何かしらの障害を持っていたとしたら、自分は障害者を見世物として笑ってることになるんじゃないかってどこかで考えちゃうんだよね。

まあ、変わってるところがその人の個性として受け入れられるなら、そもそもそれを障害と呼ぶ方が失礼なのかもしれないけど。

気持ちに身体が追いつかない

自分のことは自分にしか分からないし感じ方は人それぞれだから同じ感覚を人と共有するということは不可能なんだと気付いた。

人の言うことを無闇に信用したらいけない。例えその人が自分にとって信頼できる相手であったとしても。
自分と相手の間にある感覚の違いははかりようがないから。どんなに巧みに言葉を用いても完全には再現できないものだから。

なんて生きづらい世の中なんだと感じるけど、他人との感じ方の違いを正確にはかることができたら今よりも更に生きづらい世界になるかもしれない。

結局、他人の全てを理解することができない方が人間にとって好都合なんでしょう。

モーニング娘。を見に行ってきた話


特に行くつもりはなかったんだけど、前作の時に行くか迷った挙げ句行かなくて後悔したので、モーニング娘。'17のイベントに行ってきた。

わりとゆっくりめに行ったら4階まで人がいっぱいで、やっぱりモーニング娘。は人気なんだなあと思った。見えそうな場所がなくて焦ったけど、広めに場所をとってる女の子たちに話しかけて、間に入れてもらえた。ありがとうございました。特に近くで見たいわけではなかったので、とりあえず見えれば良いかなぐらいに思ってたんだけど、フォーメーションダンスを上から見るのはめちゃくちゃ楽しかった。

とにかくステージから若さとエネルギーが溢れてて、心が浄化された。自分もまっすぐに生きたいと思った。

小学生の時にベリーズ工房のイベントを同じ場所で見たことがあったけど、自分が年をとってメンバーより年上になってしまったせいか、ライブを見ながらしみじみした気持ちになった。ただ、アイドルを応援したいけど、このヲタクの中には混ざれないなぁという気持ちは小学生の時と変わらなかった。笑
テンションが上がったら盛り上がるのも好きだけど、基本的には動かずにステージを凝視していたい。今日は両隣の女性も静かにペンライト?を振ってるだけだったのでゆっくり見たことができた。


近頃は夜な夜なモーニングみそ汁のMVを観ながら号泣する生活を送っていたので、生で聴けて嬉しすぎて涙が出そうだったけど堪えた。最初はモーニングみそ汁ってなんやねんって思ってたけど、聴けば聴くほどこの曲には幸せがつまっている。まさに多幸感。24時に公開されたキャンプファイヤーの映像も観たけど、当たり前に泣いた。本当に心が洗われる。元の曲が良いだけじゃなくて、モーニング娘。'17が歌うからこんなに染みるんだろうなぁ。そういえばこの曲の途中ではるちゃんが後ろに下がるところでさくらちゃんにぶつかって一瞬ひやっとした。後ろを見ずに後ろに下がるって何気に凄いよね。


セトリ
1.BRAND NEW MORNING
2.モーニングみそ汁
3.ムキダシで向き合って
4.ここにいるぜぇ!
5.ジェラシー ジェラシー


無知なので今日始めてモーニングみそ汁が音源に収録されてることを知った。これからは歩きながらでもたくさん聴けるぞ。幸せ。

『神の手』

試験中だけど完全に油断してるので読み掛けだった小説を読み終えた。



いったん″空気″ができあがると、それにそぐわない意見はすべてシャットアウトされる。この国を律しているのは、正義でも理念でも経済でもない。ただの″空気″だ。古くは戦前の軍国主義から、最近の自己責任論やグローバリズムまで、日本を動かしてきたのは、常に社会を覆う″空気″だ。
(久坂部洋『神の手(下)』)


作品自体はフィクションけど、これは確実に現実に言えること。″空気″の恐ろしさというものを常々感じるからこの部分が一番印象に残った。


世の中、医療を扱った小説とかドラマって沢山あるけどあんまり興味ないんだよね。でも久坂部洋の本は医療について何も知らない私でも理解できるし、ストーリーも手が込んでて面白いからすき。天才なんだろうなって思ってる。

友達は定期的に会わなければいけないという考え方

最近悩んでること。世の中には、友達=定期的に会うものだと考えてる人は一定数いるのだろうか。
そう思うのは個人の自由だし、特定の個人の悪口を書きたいわけではないけど、私は同意できない。どんなに好きな人でも、義務的に会う時間を作るような関係にはなりたくない。


これは友人関係に限った話じゃないけど、物事は義務になった途端その価値が低くなるように感じる。自発的にやるから感じられる価値がある。

他の大事なことを犠牲にしてまで定期的に会わないと保てないような関係であれば、私は相手を友達だと認識できない。しばらく会わない時期があっても関係が続くのが友達だと思ってる。


別に友達を崇高な存在だと言いたいわけではない。たまには相手の愚痴を言うことがあっても良いし、お互いに相手の知らない部分があったって良いと思う。相手のことをどれだけ知っているかということと仲の良さというのは必ずしも比例するものではない。
仲が良い友達だからこそ、負担になるような時は無理して会う必要はないし、その分久しぶり会えた時は嬉しい。
これはあくまで私の理想だから、親い人のなかでも違う考え方の人がいるとは思う。仲の良い友達と考え方に相違があるというのは自分にとって結構プラスになると日頃から感じてるけど、そこを負担に感じてしまうような相手がたまにいる。そういう相手とは距離を置くのが賢明かもしれない。

そもそも友達ってなんだろうとか考え始めるとキリがないし、それ以前に友達なんてものはこうして言葉で色々考えて定義付けするようなものではないのかもしれない。

ブスってなんだろう

ブスをブスと蔑むブスほど醜いものはないなと思います。


ブスじゃない人には関係のない話です。


以上です。

小説のタイトルが思い出せない

去年か一昨年ぐらいに読んだ小説が思い出せなくてモヤモヤする。

主人公の女性が小学生の時、クラスメイトの女子4人(?)でバレーボールで遊んでいたら男がやってきて、4人の中で一番可愛い女の子を連れていく。その後、残された3人が帰りの遅い女の子を心配して様子を見に行くと女の子が更衣室で殺されてるのを発見する。
同じく小学生時代、町内の家から人形が盗まれる事案が多数発生。

諸々あり、主人公の女性は同じ町出身の男性と仕事(?)で出会い結婚→海外へ。しかし相手が異常な性癖(人形が好き)をもって計画的に自分に近づき結婚したことを知る。昔主人公の家から人形を盗んだのもこの男。男は人形と同じドレスを主人公のために用意してた。何が起きたかはよく覚えていないが主人公は男を殺す。

小学生時代に一緒に死体を発見した友達のうちのひとりは、兄が姪に性的虐待をしているのを発見、兄を殺してしまう。


他にも断片的には色々思い出せるんだけど、重要なワードも登場人物も著者の名前も出てこなくてわからない。
誰か知ってる方いらっしゃいましたら教えてください。おもしろかったからまた読みたい。